日々の記録

日記形式で文章を書く練習

判断の留保

判断をするということはどういうことか。それはそれまでの思考を中断することである。考えることを一旦やめて行動に移すこと、暫定的な答えを出すこと、それが判断である。人間はある時、一定の場所で何らかの行動を取らなければならないため、思考を中断せざるをえない。ここまでは事実であると私には思われる。

しかし、それを理由に「さっさと行動に移せ」というような命令(いささか脅迫じみた格律)は正当化されるだろうか。これは非常に疑問である。その上難解な問題だ。

ところで、判断をすることと行動に移すことは交換可能な述語なのだろうか。私が最初にした判断の定義には、これらが交換可能であることが前提されていたのである。しかし、私たちは、判断をしたけれど行動には移さなかったということが多々あるではないか。それには色々な理由があるだろうが、それはここでは重要ではない。判断と行動との混合、これこそがまさにこの疑問の原因である。

判断をすると言うとき、判断能力と判断を下すこととがごちゃ混ぜになっている。判断能力とは判断を下せる可能性、判断を下すこととは行動に移すことである。したがって、これらは明確に分けて考えなければならない。判断をすることが、判断能力、すなわち判断を下せる可能性を意味するならば、それは本来の意味の判断を意味する。また、判断をすることが、判断を下すこと、すなわち行動に移すことを意味するならば、それは実際の行動を意味する。

以上の考察をもとにして、いくつかの命題を立てようと思う。それは、「行動には移しても、判断を留保し続けるべきである」というものだ。行動に移したからといって、それは判断をしたということにはならない。そこで考えること、疑うことをやめてはならない。私はこのような厳密な意味において、判断の留保を提案したい。