日々の記録

日記形式で文章を書く練習

決意、脱・時間の浪費

今日はいつものように何もできなかった。大した課題でもないのにめんどくさがって、何もせず一日を浪費するのは本当に改善しなければならないと思う。ぼくにはやらなければならないことが山積みのはずだ。来年までに有言実行から不言実行へと移行できたらいいなと思う。

そして、今のぼくは以前とは違う。克服した悲観主義と獲得した楽観主義を組み合わせて、課題と自分の勉強の両方に取り組んでいきたい。

告発すること、悲しみ

最近の出来事から学んだことがあるので、ここで整理してみる。

いつもは明らかにされていないこと、あるいは隠されていることを告発することは多くの人にとってかなりのショックを与えることがあるということだ。私はただ事実が何であるかを知りたいだけで、誰かを非難するつもりは無い。例えば「この状況はこうなってますね」と言うと、決まって非難される。これは一体どういうことなのか。私が言ったことは事実の確認であって、非難、批判、当てつけといった恨みではない。それなのに「あの人はいつも悪口を言っている」と勘違いされてしまう。客観的出来事と個人的な私情を分けられていないことが原因ではないだろうか。私は折れるわけにもいかず、なんとか私の言っていることを正しく受け取ってもらえるように説明する。しかし、その時、人は狼狽する。それまでの自分の確信が根底から揺らいでいるからだ。そしてその揺らぎに耐えることも止めることもできないとき、現実逃避して私を攻撃する。

だからこういった人たちには何も告発しないのが無難であるということだ。その代わり、私はこういった人たちには耳を貸さない。それが公平というものであろう。

贈与、征服、そして窃盗

人に何かをしてあげたい、その人のためになることをしたいという感情はどのようにして発生するか。まったく自分のためにならないような行為を人間がするとは考えにくい。なんらかの点で行為者の利益が発生している。利益という言葉はビジネス的すぎる。その利益は精神的なものでも構わないからだ。「わたしはあなたにいろいろなものをあげましょう、お礼はいりません、あなたの成功がわたしの喜びです」こんなことを言う人間は信用ならないし、鼻持ちならない。意識的か無意識的か―ほとんどの場合、無意識的だが―を問わず、ここには征服システムが作動している。この人が得ているものは誰かの喜びではなく、征服の快感である。いま述べていることはわかりやすく図式化しただけのことであって、いたるところで、この贈与システムが動いている。それは贈与という聞こえのいいベールに包まれた征服である。これは贈与ではない…

与えるのではなく、盗ませること。勝手口の鍵を開けて、いつでも入れるようにしておくこと。私は誰にも何かを与えようとは思わない。「わたしから何かをもらおうとは思わないでくれ!わたしから盗んでくれ!」盗ませる余地を残すこと、これが本当の贈与である。

私は贈与の潜在的な欺瞞、厚かましさに耐えることができなかった。善意をもって言うときでさえ、征服を目論む帝国主義はそこに存在する…

説得と共通理解の平原で

人は他者を真に説得することができるか?説得にはいつも力とか脅迫とか静かな暴力が眠っている。わからせるというニュアンスが強すぎる。これではとてもやりきれない。論理の壁をずかずかと打ち破って差し迫ってくる。別の世界の論理に再接合するために。説得することは戦争を仕掛けること、そして無条件降伏を要求することである。説得という名の植民地政策。一体あなたは何の権限をもってわたしに降伏を命じるのか。なぜわたしはすべての権利を放棄し、あなたの専制君主制に従わなければならないのか。説得はいつもこんな調子だ。互いに説得し合っていつかは共通理解が得られると考えるのは、わたしとあなたが寸分違わず同じ思想や思考形式を持つと考えるのと同じくらい馬鹿げている。だから、私は誰にも説得されないし、誰に対しても説得しようなどとは思わない。

説得をすることなしに共通理解を結ぶこと。共通理解とは契約だ。わたしのあなたに対する生成と、あなたのわたしに対する生成がある。その間で結ばれる一つの契約。相手の国に侵入するのではなく、鉄道を敷くこと。降伏ではなく市場を形成すること。それは同じ思想を二人が担ぐことではない。絶えず流れる川を二人の間に引くこと。共通理解とは一つの作品ではない、それは炎だ。あなたはその火が消えないように薪を焚べ続けなければならない。

そういうわけで、最初の質問にはあまり意味がない。説得することは服従させることであり、共通理解を得ることは契約を結ぶことである。ここにはただ服従と契約の選択があるだけだ。

会話、それはアポリア

昨日は新しい考察をした。それは誰も私の話を聞く気はないということ。嫌味で言っているわけではない。誰しも自分のこと、自分が考えていることを話したがっている。たとえ私に質問をしたときでさえそうだ。聞く前に答えは出ているから、あなたはそれを私から聞き出してくれというわけだ。他者と話すとき、相手をあたかも自分自身に話しかけるのと同じように話してはならない。そこには別の、全く知らない別の世界があるのだ。

夢にて

昨日は気持ちの切り替えがうまく出来た一日だった。そして今朝はねごとの前でじょじょを歌う夢を見た。ねごとが夢に出るのは初めてで嬉しい。ヤフオクプラトン全集も落札できてちょっとだけテンションが上がってる。今日は雨だから歩いていこう。

気温は不安定、気分は安定

今日は夏の暑さが息を吹き返したような一日だった。午前はのんびり過ごし、午後からはソクラテス以前の哲学史と、イギリスとアメリカの関係を勉強をした。今日は特に書きたいこともないのでこの辺で。

今日は普通の日、でもいい日

いよいよ『実践理性批判』に取り掛かったがやはり少しも進まない。序というよりは結というほうが適している。取り組んだ時間と進捗は比例しないということを改めて実感した一日だった。

 

今日はガールズバンドのねごとについて論じてみたい。以前から構想は練っていたがこれといった機会もなかったので、ここらで素朴に展開してみたいと思う。

 

凛夜

凛夜

  • ねごと
  • ロック
  • ¥250

 

今日紹介するのは「凛夜」という曲。ETERNAL BEATに収録されている一曲だ。一番、二番という概念はこの曲には無い。Aメロとサビから成る。Aメロで歌われていることはこうだ。まず最初に俯いた人々が登場する。彼らはそれぞれの時間を生きている。この曲の主人公はそんな彼らを眺めている。ここで主人公の独白が笑って死ねればいいじゃんという衝撃の一言。全体的に憂鬱な雰囲気で包まれている。ここまでではこの人物が何を考えているのかわからない。次の一節でこの人物は、最近大人になった寂しさを感じてなんとなく泣きたい気分にあることがわかる。歩道橋から街の光まで距離を感じる。この曲では天気の描写は一つもないが、霧がかっていて雨がしとしと降っているように感じる。しかしこの雨と霧こそがこの曲の主人公の心情なのだ。なんのあてもなく、ただ生きているだけの日々、過去の情景がロマン主義的な甘美さをもって主人公の頭をちらつく…

このように「凛夜」はメランコリックな性格を持っている。しかしそれで終わらないのがねごとだ。

サビでは今までと打って変わってエネルギッシュになる。自分自身に対してはだかになって、当たり前だった今日もそのままを全部愛してと訴える。そして理想ではない未来でも生まれたての夢を見たいと語りかける。あなた自身になって、わたし自身になって…一気に霧は吹き飛び、雨は止んで白い光が降り注ぐ。どこかマルティン・ブーバーの我と汝を思わせるサビだ。

Aメロの存在論的な不安とサビの快活さ。「凛夜」はねごとの実存主義哲学である。

 

以上「凛夜」を紹介してきたが、あらゆる面でねごとは型にはまらないバンドだと思う。いつも次の変化を予想できないねごとの音楽をこれからも楽しんでいきたい。

 

ETERNALBEAT(通常盤)

ETERNALBEAT(通常盤)

 

 

 

ETERNALBEAT(初回生産限定盤)(DVD付)

ETERNALBEAT(初回生産限定盤)(DVD付)

 

 

雨、少しさむい十月は

今日は気温が二十度を下回り、厚めの上着が必要なほどだった。朝から晩まで講義とバイトに振り回されて、読書をする時間はなかった。おまけに鼻はむずむずしてあまり快適とは言えない一日だった。しかしだからといって特に悪いわけでもなかった。

 

考え事をする毎日だから漠然と何かに不安を感じることはあるけれど、ティリッヒが言うように不安を完全に打ち消すことはできないのだから、考え込むのはやめた。

 

もとよりぼくにはやるべきことが山ほどあるのだが、ここでちょっと古代ギリシアに寄り道をしてみようと思う。たまたま見つけた本だけどなかなか読みやすそうだったので、ひとつ借りてみることにしたのだ。

 

もう眠いのでこの辺で。